昭和40年03月30日 朝の御理解



 一心の真と、真一心といういうのがあります。一心の真と。一心というのは一つの心。やむにやまれない、思いという事でしょうね。いつも目をつぶればもうその事。その事が自分の心の中に去来しておる。真というのはそう言う様な、一心の思いが形に表れた時。一心の真を持って貫くと。その一心の真と、その一心の真というものを今ほど椛目に、全体の上に求められておる時はないのじゃなかろうかと私は思う。
 椛目全体の上に、天地の親神様はです、一心、氏子の一心の真を求め給う。そこで、皆さんが今一心に思うておられること。それをお互いに検討してみて下さい。それはこのことを思えあのことを思えということじゃあない。自分の心の中にあることなんですからね。それがもちろん、浄化していかなければなりません。純な物になっていかなければならんことはもちろんです。
 昨日は久留米の野口つぁんの所で謝恩祭がございました。ようも、ああいうおかげを受けられたもんだなと。段々おかげを頂かれる、椛目に御神縁を頂かれた当初の時分の野口つぁんの、家の状態というものを思えば思う程おかげを受けられ、またはそしてまた、そのおかげの不思議とは言うてはならないけれども、不可思議極まるもんだなぁという事を思わずにはおられません。ね。
 もう本当に野口っつあん達こそ、食べるに食難と、住まうに家ないという所を通ってきておられますからねぇ。本当に、今日一家中の者がいきんで、いきんなっとんとみ、と見てもらおうといった時代があったんです。ね。もう、私はあの晩の事だけは忘れられません。五月五日の水天宮さんの、花火の上がりますねぇ。あの花火、本当に一家中の、いわば子供達を引き連れてですたい、行くに家がないのですもん。
 それをあの縄手のあの辺りから、花火を眺めた時の事は今でも忘れられませんと言うて、野口つぁん話されるんですけれども。その野口つぁんが現在の、ね。本当に神様から貸し与えられておる、神様から与えられておられると言わにゃおられないような、お家に住まいをしておられる。ね。それはこと金殿玉楼の様なお家でもなからなければ、というて金銀財宝の中に埋まっておられるというわけでもない。
 けれども必要にです、事欠く事のない一切の上におかげを受けておられるという事。昨日、あちらに御参拝なった方は年年歳歳、ああしておかげが垢抜けしていきよるのを、まぁ、ご覧になる。これは野口つぁんだけの事じゃあありませんですねぇ。お互いの銘々の上の事が言えるんです。ね。本当に、もう、本当に勿体無いおかげを、皆さんは頂いて、そういうその、おかげの事を思えば思う程。
 明日、年に一遍の謝恩祭、でもさせてもらわなければおられないというのが野口つぁん、富永さんの実感でございましょうけれどもね。もう、富永さんの、お宅なんかは、もう、京都におられるご兄弟。福岡、言うにおよばずですけれども、ご兄弟までが皆あのお祭りに馳せ参じてからの御祭でした。野口つぁんと、富永さんの、もう、一生懸命の思いが、親戚の者までそう動かすんですね。
 私は、あのう、御神前に昨日出らせて頂いて、一番初めに頂きます事が、この絵に見る新田義貞があの稲村ヶ崎でですね、あの小金作りの太刀を、こう、竜神に奉ろうとしておる姿を頂くんですよね。どうにもならん。だからまぁ、武将として一番自分が大事にしておるという、その守り刀のような刀をです、その天地に捧げるわけなんです。そして皆さんもあの物語をご承知の様にね。
 天地が自由になると言う様な天地が、動きなさる様なおかげになって来ておる訳なのですね。例えばあの御祭を仕えられるのに、もう厳密に言うたら正月の頃からお取次を頂いてから、日にちを定めて頂いてそして、もう思いを込められて所謂一心というのが、もうそこにある。野口つぁんなんかはお参りしてみえて、もうこの頃はもうとにかく宅祭の事ばっかり一家中の者が考えておるね。その一心の思いというものがです。
 昨日、あの御祭に形によって、真が表されたわけなんですね。そりゃ人間の事でございますから、何処に不浄がお粗末が御無礼があるやらわかりませんのですけれども、そして、あの御祭が奉仕されたんです。ね。そこで、そのう、私共が様々な事をその一心という事は、本当に神様に喜んで頂くような一心。が、段々出る様なおかげを頂く為にそういう、一心が出る、神様に向けてよ。
 神様へ向けての一心が出る為に、お互いの信心がなされていくと言うても良い。一心を貫かせてもらう所に真に、真で表現される所のおかげを頂く。お土地の事で些事で石浦の、農地委員の方やら部落長さんやら主だった人達がみえられました時に、私ここで神様にその事をお願いさせて貰いよりましたら、備品の備ですね人偏にこう。備中の備ですほうこの人達も椛目にとって一つの備品になられる方達だなと、私が思ったんです。あの中には椛目があそこへ行く事を、大変嫌われる方達もあったに違いないです。
 真っ向から反対してた方達もあるだろう。それとてもやはり備品。椛目の為に必要欠くべからず、まぁ必要欠くべからず所の備品という。備品というのは大変失礼ですけれども、必要な人達だという事なんです。ね。今度の、この例えば御造営といったような事でも、もう三井教会っていうのはもう絶対必要であったという事です。三井教会無しには、今度の御造営を思い立ちすら出来てなかったという事。ね。
 ですから今まで椛目の為に反対をしよんなさった、例えば、なら、石浦やらあちらの部落の人達でも、ね。どういう様なものでも、やっぱり大事にしなければならない事が分かるですねぇ。神様が私共に一心を出させて下さる為に、真を持って表現さして下さる為に、そして、一心の真を持って天地が動いて下さろうとする為の前提。ね。本当に、歯がゆい事じゃある。椛目の為に反対をするやつがおるという事ではないという事が分かるでしょう。善導寺の親先生がどうでしょう。
 教会認可は、もうこれだけの設備が出来とるから、まぁ、ちっとは善導寺は近すぎるけれども、まっ、あそこで仮の、認可でも受けて、まぁ、おいおいあちらに行く様にせにゃならんと仰っとったら、もう絶対こういう様な、現在の椛目として起こる、大体、筈ではないような事が起こってきとるでしょうが。ね。あれではいかん。あそこ、あちらまで行かなきゃいけんとこう。ね。
 しかも善導寺からどれだけ離れた所、田主丸からどれだけ離れた所、というと丁度その合楽辺りがそうなる。だからその事を漏れ聞いた合楽部落の人達がです、もう金光様が来らっしゃるげなけんで、もう安うどん土地を売るなという様に(笑)いう様な事になってくるのも当たり前、人間ですから。ね。こっちは頑張って世話やあたくなるぞと。と言われるのも当たり前。そこに例えば、あちらの中に反対を言うたりしたり、しておる、おった人達もです。
 もうとにかくその事を成就していく為の、いわゆる、離心であった事に間違いないのです。そういう様な手の込んだです、例えば備品までも揃えてです、神様が。ね。一見、例えば歯がゆい事の様にありますけれども、それ無しには後が成就しないという事。その成就させて下さる為に、椛目全体のいわば会員全体に、神様が何を求めておられるかと。何を出させようとしておられるかと。
 一心である。真である。ね。一心の真を持ってです、天地が動いて下さる様な、ヒレイと言うかおかげというものが頂けてくる時、それを大任させてもらう時自分の心に。その体験がその後のおかげの力に、光にならないはずはないでしょう。これは小さく言や、皆さんの個人個人の上の事においても、同じような事が言えるのです。ね。ですから、その事を大事にする、その事によって神様は一心を出させようとなさっておられるのであると。真を持って表させようとなさっておられるのであると。ね。
 それは新田義貞にとってこの小金造りの太刀は、それこそ、命の様に大事にしておられた物であろう。それが竜神に捧げられる時です、天地が動きなさった。天地が、小金造りの太刀をもらいなさったって、ね、別に何ていう事ないでしょう。海に沈められてしまう物ですから。いうなら惜しいこっちゃないか。そげな事やめろって言うごたる気がするですね神様としては。
 けれども氏子のその一心を、神様は求め給うたのですよ。ね。捨てさせるというその真をです、神様は求め給うたのですよ。その求めに、いわば、応じる様に新田義貞は一心と真を海に投じたのです。そこに天地が動きなさるようなおかげが頂けれる。そういう意味合いにおいてです、今こそ私共はその一心の追求。いかに真を表現するかという所に焦点を置いて、しかも一人では持ち上がらぬ石でも、大勢が掛け声を揃えて持ち上げれば持ち上がるような道理と仰る。そういう思いが、ね。
 十人よりも五十人、五十人よりも百人と集められていく時にです、それこそ天地が動きなさるような思いもかけぬおかげに進展していく事であろう。そこに、神の願いが成就する事なり、しかも私共の願いが成就する事になり、神の願いと氏子の願いというものは同じ、結局は同じ事であったというような、おかげになってこなければならんという風に思うですね。
   おかげ頂きました。